人を裁く傲慢

作家のヨシタケシンスケさんのインタビューが面白かった。

ぜひ全文でどうぞ。

 

https://wezz-y.com/archives/64669

 

以下引用。

 

『そう!「きみはそのままでいいんだよ」というのとは、また違うんですよ。だってそんなわけないじゃないですか。「そのままでいい」人なんて、滅多にいませんよ。

 

 そうやってすごく簡単に人を許してしまうのって、罪深い行為だなと思います。

 

 それに、そういう伝え方って、本当に難しい。

本当に気を病んでいる人に、「あなたはそのままでいいから」と言っても、「いや、そんなはずはない」となるだろうし、

 

対照的にだらしがない人に限って、「おお、俺ってこのままでいいんだ。ラッキー」となりそう。

 

「いや、ホッとしていいのはおまえじゃないから! おまえがその救いを持っていくな! 違うから!」って(笑)。』

 

私はものすごくこれを感じていて、流石作家だなあ、まさにこれが言いたかったとスッキリした心持ちで目を通した。

 

本当に、それに尽きるのである。

 

と、もう語る事がなくなってしまいそうなので色々考えると、やはり公の場でそのままで良いなどという言葉を安易に使うべきではないのだろうと思う。

言葉狩りとは少し違うのだが、やはり言葉を発する、記す前に少しだけ考える事をもう少しだけ多くの人がすれば、

 

あなたの言葉に傷ついた、どうにかしてよ!!〇〇さんはそのまんまでいいって言ってくれたのに!!

 

あなたの言葉は弱者の斬りすてよ!!それでは誰も救われないんだわ!!

 

と言う意味不明な輩も少しは減るだろうなあと思う。結局はそれはマイノリティに向けた極論であるのだから。

 

そこの区別をつける事や分別をつける事こそが、教養であるし、謙虚さであると私は思う。

 

この人には、こう伝えても大丈夫、誤解は生じないだろうと考えてから言葉を伝えるべきだし、

 

それができずに直ぐに感情論や極論を持ち出してくる人々は、コミュニケーションに問題があるタイプで、それ故に生きづらさを抱えているのだと思って差し支えないだろう。

 

何かを裁くと言う事。

誰かを守る、弱者を守る、マイノリティを庇護すると言う理由があれば、それが免罪符になるわけがないのだが、何故かそれを勘違いする輩も多い。

 

裁くと言う事は即ち、裁かれる側が存在する事となり、それはコミュニケーションに他ならない。裁く側にはまた高度なコミュニケーション能力と、分別をつけられるだけの教養と冷静さが求められる。冷静さに欠けて感情にはしる事ほど馬鹿馬鹿しいことはない。

 

教祖様方はまさに私はこのように苦しんでいる人を救いました、世の中の道徳や倫理を守らなくていい、と伝道する事で多くの人を救いました。

と、語るがそれは、真面目に誠実にコツコツ地に足をつけて、ひたすら真摯に生きている人々を裁く事にならないのだろうか。

 

公の場で語る事でコミュニケーションに齟齬が生じるとは思わないのだろうか。

 

まあ、深淵を覗くときまた深淵もこちらを見つめているのである。

 

ただそれだけの事。

 

簡単に許すことも裁くことも罪深いのである。