快楽主義者への誤解

快楽主義者、エピキュリアンepicureanほど勘違いされやすい言葉はないと思う。

 

アメブロスピ界隈では自分を生きる、大切にする、引き寄せハッピーとよく語っているが、亜流になってくると、快楽主義者万歳のようなわけのわからない事を語る阿呆が出てくるのでうんざりする。

 

厳密にいえば、快楽主義者とは

現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張する人々の事であり、哲学者エピクロスに端を発するエピクロス派の事を指す。

 

通俗的には勿論キラスピ教組様のような人々も含まれるのだが、言葉の起源や真意はそこにはない。

 

より詳しく快楽主義者の主張を解説すると、

まずは欲求を分類することにはじまる。

 

1.自然で必要な欲求(友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、

2.自然だが不必要な欲求(大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、

3.自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、

 

この三つのうち1.自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、

こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。

 

後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えていたはずだ。

 

実際彼らは閉ざされたユートピアの中で粛々淡々と生活を送っていた。

 

まあ、何がいいたいかと言うと自分を生きるとか、自分が幸せで楽しいことが周りを幸せにするとか一番大切だと言うのは、ataraxiaから程遠く、そんな事も知らずに快楽主義者万歳★というのは片腹痛いという事である。

 

そんなのは、ただの唾棄すべき側のegoistでしかない。

 

どちらかと言えばストア派に肩入れしたい私ではあるが、ataraxiaの考え方は嫌いではない。ただ、行きすぎると単なる引きこもりになるので、快楽主義者万歳とまではいかないのである。

 

エセエピキュリアンたちのお陰で今日も誤解が生まれていく。

 

できればその脳内の花園から一歩も外にその妄想と妄言を出さずにいて欲しいと思ってしまう。

 

それは単に私側の美意識の問題なのだけれども。