良心の働きに耐えられない

元来、人は弱くて脆いものである。

 

それがプラスに働くのかマイナスに働くのかはその人の選択に委ねられているのではないかと私は考えている。

 

最近はツイッターで呟いたり、ぶらぶら界隈散策をする時間もなくバタバタ過ごしているのだが、

チラチラとさまざまな所を細切れに覗いている。

 

人は弱くて脆いので、ふとした瞬間に良くない方向に向かってしまうこともあるし、気がつけばとんでもないものにハマっていることもある。

 

可愛い、大事、大好き、得難い宝物と吹聴してまわる我が子を憎いとかうんざりするとかウザいと語り出す事もあるし

 

(私はそんなsnsでの発言を見るたびにギョッとするのだが、本質からズレるのでいまは深掘りしない。

ただ、人のあり方としてどうかと思う。どんなに高尚な事を語ろうとも我が子への向き合い方にその人の本質が現れると考えている。

子供が子供を育てるなどとは片腹痛いし、互いに不幸な事だと思う。

人の本質は動機に現れる。)

 

悲しいことや人生の中で避けられない不幸や理不尽にであった時、酷く疲れている時に、

 

弱さ脆さがマイナスに働きやすくなる。

 

だが、同時に、嫌々ながら始めたことや、意地悪な気持ち、承認欲求を満たそうと始めた事でも

 

純粋に感謝されるうちに、相手に向き合ううちに、役に立っているのだと気がつくうちに、

その良心の働きに耐えられず、本当に真心を尽くすようになる事もあるのだ。

 

私はそんな、人間の弱さ脆さが愛しいものだと思う。

 

真剣に向き合うことや努力することは耐えられないような良心の働きに揺さぶりをかける事がある。

 

私はだから、目の前の問題に向き合う事や精一杯努力すると言うことが、結果よりもずっと大切であると思っている。

 

動機が変わることが、止むに止まれず行動に繋がる思いが変わることが、

ある種のスピリチュアリズムであるとも考えている。

 

現世利益万歳の考え方では結果しか見えなくなってしまう。

 

そうではなくて、人の弱さ脆さをいかに良き方向に持っていくかが大切だろうと私は考えている。

 

さて、あなたの教祖様は、あなたの信心の先はどうであろうか?

 

ぜひ一度考えてほしいなと思う。

 

しかし…

アラバキ天気が悪そうだなあ、私は弱くて脆い人間なので、天気が悪い中のフェスは疲れるんだよねぇ〜。

ただでさえも仕事のあとの最終列車。

万全の態勢と対策を取らねばならんと今から楽しみである。