偏頭痛と失敗

先日仕事で大きな失敗をやらかした挙句、偏頭痛が酷く何をする気にもならないという大惨事な日々を過ごしていた。

 

少しずつ回復しているものの、心理的ダメージが大きく、自分で自分を責め続ける苦しみと、誰かのせいにしてしまいたい自分の浅ましさを抱える苦しみに七転八倒していた。

 

まあ、人間なんてそんなもん、と言えれば良いのだが、自分の未熟さ、浅ましさと直接向かい合う苦しみは何度やっても慣れないものである。

 

あの時ああしていればこうしていれば、あんな風にしてしまった、もうだめだなどと次々としようもない思考が嫌な気持ちとともに浮かんでしまい、とはいえどうしようもないので放っておくのだが、何しろ感情を伴うものだから苦しい。

 

偏頭痛が酷いと目眩や吐き気がする体質なもので、それにもまたうんざりしてしまう。自分の体なのに思うようにならない苛立ち。

限界まで薬を飲まないのもまた自分の悪い癖なのだが、最中はまだ、まだいける←?と思ってしまう。反省。

 

さて、黒猫ドラネコさんの連載、新しい記事が追加された。

 

まだご覧になっていない方はぜひご一読を。もうご覧になっている方もぜひまたご一読を。

 

https://www.cyzowoman.com/2019/05/post_232799_1.html

 

人はどうしようもない苦しみを抱えながらも生きていかねばならない。

それと向き合うのはどんなにか辛い事だろうと思う。

現実を突きつけられた時に、自殺未遂をしてしまう気持ちもわからなくないと思ってしまう。それほどまでに自分と向き合う事は苦しいのだから。

 

苦しみから逃げ出したい。直視したくない。

でも、逃げ出した後はどうなるんだろう。

理想の、幻想の中で生きる事を手放すくらいならば、恥をかき、汗をかき無様さを晒して生きるくらいならば死にたい気持ちもよくわかる。

でも、そうして生きたところで根底にある生きづらさや苦しみがなくなるわけではないのだ。

 

強くなる勇気と無様で未熟な自分を責め続ける事なく、その自分の成長を信じ愛することのできる聡明さを。

 

どうしようもなく、格好悪い、悪足掻きをする自分を心底愛しいと思える心の強さを。

 

私だけでなく、どうか、多くの人々が手に入れる事が出来ますように。

 

教祖様を手放した人々を支える事が出来るのは間違いなく近くにいる人々の愛情であり、忍耐強さであり、相手を信じる強い気持ちである。

 

自分嫌いの人々に、自分嫌いのあなたのことを愛する人々の存在を理解してもらう事である。

 

誰も彼も見下して、見下される恐ろしさに怯えて、誰にも助けを求められずに、何にも言えない自分を持て余している人々を支えるのは大変だと思う。

 

それでも、それをやってもいいと思えるほどあなたを信じているという事を伝え続けてほしいなと思う。

 

心の傷がいえたとき、信者様はきっと教祖様なんていらなかったと、気付く事が出来るだろう。

 

まあ、仕事で大失敗やらかした今の私の支えは寝ることなのだが。

 

近いうちに親しい人々に、お腹を抱えて笑ってもらえるような話にしてやろうと思っている。