疑う心に鬼が住む
疑えよ!というのが、300万円設定変更教祖様の決め台詞←?であるらしいのだが、
疑心暗鬼と言う言葉がある。
ことわざ辞典によると、
●疑心暗鬼を生ず
読み(ひらがな)
ぎしん あんきを しょうず。
意味
疑いの心を持っていると、見るもの聞くものが疑わしく思え、次から次へ 妄想を作ってしまう。
その結果、日常の何でもない普通のものまで、不安や疑い、恐ろしさを 感じてしまう。
という意味である。
いやいや知ってますがなは承知の上で記しているのだが、この疑えよ!の台詞は、信者様がたの心に鬼を巣食わせるとんでもない呪いのように感じて私はゾッとしたのである。
(節分や追儺式、おにやらいについてどうのは今回置いておく。こちらの記事に記す鬼は、一般的に広く使われる災いとしての鬼とする。)
疑えよ!は、一見すると自分で考えなさいと言う言葉のようにもとれるが、
(私以外を)疑えよ!とも取れる言葉であり、なんと言うか、うわあ、である。
他者を排斥する事で自らのみを信じさせるその手口は素晴らしいと思うのだが、ちょっと怖い。
自分で考えなさい、調べなさい、自分で決めなさい、とは言わずに、
疑えよ!とただ一言だけ言うのは強い呪いのようにじわじわと信者様の心を縛り付けるだろう。
教祖様に植えつけられた小さな鬼は、日常生活や、まともな金銭感覚をバリバリとくらい、代わりに大切な人達への不信感や、日常生活に不足感や不満感を与えてくれるだろう。
不信感、不足感や不満感を抱えて苦しい信者様はまた楽になりたくて、一時の快楽にすがりたくて、教祖様を崇め奉り、お金を払って苦しみを解いてもらおうとするだろう。
そうしていつのまにか自分自身が鬼になっているとも気付かずに。
まともな世界からは追儺式されるのだ。鬼は外、福は内、と。
私はあの教祖様のご尊顔についてなんとも言えない立場にあるが、なんとなく、鬼のような風貌だなあと思う事がある。
ちょっとだけ、ね。般若のように色白で、鼻筋が通っているからかもしれない。
彼女の伴侶はすごいと思う。私は彼女の憤怒の表情を直視出来ない自信がある。
べつに何を美しいと思うか、幸せだと思うかは自由であるし、喜んで鴨をやっているのだからお幸せにとしか思わないのだが、一応の注意喚起として。
あ、そうそう、八戸には鬼屋敷と呼ばれるスポットがあったような…宗教がらみのよくわからない噂もあったが…。
(※全く関係ない案件だと思いますし、不動産である以上、所有者の方や管理者の方の財産です。不用意に面白がって、公序良俗に反する事なきよう切にお願い申し上げます。)
疑う心に鬼が住む。
疑っていいのは、それが自分の良心に反する事ではないか、道理に反していないのかという事であり、他人がどうのこうのでは一切ない。全てはあなたの中に。
鬼をすませる館はあなたの心の隙間に。
座敷牢で飼いならすほどの勇気と教養を。