clock lock works

坂口安吾堕落論の中で法隆寺も停車場にしてしまえばよいと語っている。

 

美の極致をその機能性や実用性に見たからである。

美意識に関しては個人の裁量の範囲であると私は思っていて、

 

この美意識もまたよくわかるなあと思いつつ華美な装飾や過剰な装丁に蛇足的美意識を見いだしてしまうので全面的に賛成とはいいがたい。

 

ただ、ではシンプルなものに美を感じないかと言えばそうではない。

 

フローベールの純な心を読めばどうしたって毎回泣いてしまうし、

健気に生きる人々の姿に美しさの極致を見るし、

淡々とした日常の中で他者への思いやりに触れればいちいち大仰に感動してしまう。

 

スピリチュアル界隈は、大勢に認められ、尊敬されるような自己実現が大切だとかしている向きがあるなあと思っている。

 

私はここ最近なんかそれって違うよね、というのが今のトレンドだと強く感じている。

 

良くも悪くも等身大で、とか丁寧に暮らすとか、安定した、地に足をつけて、のような流れを感じる。

 

まあ、別に何を美しいと思うか、トレンドだと思うかはその人の自由なのだけれども。

 

商業施設にはいれば丁寧な日本の暮らし的なショップや職人の工芸品を扱う店舗が山のようにあり、これを見てトレンドを感じ取れないのであればそれがその人のセンスなんだなあとしか思えないが。

 

表舞台に立つことが幸せだとか、主人公こそが最重要だとかいう時代はもう過ぎ去っていると思う。

 

「下らないと諦めて、それでもまあなんて言いたくはないわ」という歌詞があるが、この歌が作られた10年前とはもう意味が違っている。

 

下らないと諦めるのは、マスメディアや他人の価値観による幸せや承認であり、

お仕着せの押し付けの価値観による幸せである。

 

それでもまあと諦めるのはパーソナルな幸せを求めるのではなく、マス的な幸せを求めることだと思う。

 

この歌が作られた時代には社畜として働くくらいならば、勇気を出して夢を追いかけようよ、やりたいことをして自己実現しようよという意味だったと思う。

 

私はそれらを否定しないけれども、やるべき事を果たしながら夢を追いかけても良いと思うし、自己実現することも大切だけれども、周囲に感謝しながら人に尽くすことも恩返しすることも大切だと思う。

 

パーソナルをひたすらに求める時代から、パーソナルな幸せを求める時代に変わっていると思う。パーソナルな幸せは何処にいたって味わうことができるのだと多くの人が気付き始めた今、パーソナルな場所や立場を求める人々はトレンドから外れつつあるだろう。

 

物事は大抵多方面から見ることができるし、どこから見ているから間違っているということはない。

 

法隆寺を停車場にする価値観も理解できるしよくわかるが、私は装飾に美をみるから、愛しいもの程役立たずの姫君であると言う価値観を持っているから、賛同する事は出来ない。

 

まあ、人間が役立たずの姫君でいて良いという価値観はまるで持ち合わせていないので、法隆寺を人に置き換えた場合は賛同するのだが。

 

また、時代と共に価値観は様変わりする。それは、世の中が少しでもよくなるようにと人々が進化し、進歩している証左なのかもしれない。

 

そうすると、スピリチュアル教祖様はいよいよもってして不要になるかもしれない。

ま、いつだって依存心の強い人はいるものだから、絶滅する事はないのだろうけれども。